2025年02月01日
「父なる神の愛の心を悟る祈り」マタイ福音書6章5~15節
私たちの信仰生活に不可欠な「祈り」について、主イエスが教えてくださっていますので、その心を受け取りましょう。
5節~「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らは、すでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
私たちの祈りは、父なる神に向かわなければなりません。間違っても人に向かってはならないのです。人に見せるため、聞かせるための祈りは、神に届かないからです。私たちの心がどこに向いているのかが重要です。
そう言う意味では、人前での祈りは難しいと言えます。人に聞かせるためでなく、でも一緒に「アーメン」と祈ってもらうためには、内容を分かってもらう必要があると思うからです。しかし重要なのは「内容やことば使い」ではなく「神の心を知る」事です。
7節~「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」
特定のことばを繰り返すから、その祈りが聞かれる訳ではありません。それは神を知らない人がする事だと主イエスは言われました。「父である神の愛の心を知る事」が重要なのです。父なる神は、子である私たちが祈る前からすべてをご存じであり、私たちに必要で最も良いものや状況を豊かに与えてくださると、主イエスは言われるのです。
9節~「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」
主イエスは、天の父なる神の愛の心に信頼してすべてを委ね、すべてに感謝する者たちとなるように「祈るべきはこうです」と教えられたのが「主の祈り」です。その内容は「神様、こうしてください、ああしてください」ではなく、これを祈る度ごとに「父なる神の愛の心」をより深く悟るようになり、自らの心として受け取れるようになるのです。
本日の招詞はエレミヤ書29章11~12節です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。」
父なる神が私たちに与えるのは、平安であり、いつまでも続く望みであり、祝福です。この父なる神の愛の心に信頼する者の祈りを、確かに聞いてくださるとの約束に堅く立ち、感謝しつつ心から祈り、共に歩みましょう。
5節~「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らは、すでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
私たちの祈りは、父なる神に向かわなければなりません。間違っても人に向かってはならないのです。人に見せるため、聞かせるための祈りは、神に届かないからです。私たちの心がどこに向いているのかが重要です。
そう言う意味では、人前での祈りは難しいと言えます。人に聞かせるためでなく、でも一緒に「アーメン」と祈ってもらうためには、内容を分かってもらう必要があると思うからです。しかし重要なのは「内容やことば使い」ではなく「神の心を知る」事です。
7節~「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」
特定のことばを繰り返すから、その祈りが聞かれる訳ではありません。それは神を知らない人がする事だと主イエスは言われました。「父である神の愛の心を知る事」が重要なのです。父なる神は、子である私たちが祈る前からすべてをご存じであり、私たちに必要で最も良いものや状況を豊かに与えてくださると、主イエスは言われるのです。
9節~「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」
主イエスは、天の父なる神の愛の心に信頼してすべてを委ね、すべてに感謝する者たちとなるように「祈るべきはこうです」と教えられたのが「主の祈り」です。その内容は「神様、こうしてください、ああしてください」ではなく、これを祈る度ごとに「父なる神の愛の心」をより深く悟るようになり、自らの心として受け取れるようになるのです。
本日の招詞はエレミヤ書29章11~12節です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。」
父なる神が私たちに与えるのは、平安であり、いつまでも続く望みであり、祝福です。この父なる神の愛の心に信頼する者の祈りを、確かに聞いてくださるとの約束に堅く立ち、感謝しつつ心から祈り、共に歩みましょう。
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2025年01月25日
「感謝して心から讃美する」コロサイ書3章16~17節
私たちの信仰生活に不可欠である讃美について、より高い恵みに至りましょう。
16節「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」
讃美で大切なのは、音感でもリズム感でもありません。重要なのは「キリストのことばに生きる」という事です。キリストの語った愛のことばを、自らの内側にしっかりと根付かせ、同時に、私たち互いの関係の中に根付かせるという事です。
聖書の中で「知恵」は「愛」と同じ意味合いで使われています。ですから、ここで言う「知恵」は一般的な「いい考え」という意味ではないのです。キリストの愛のことばに生きる私たちが、愛という知恵の心を尽くしてお互いに正しく向き合う事が重要となります。愛の心抜きで、互いに「教え」たり「忠告し、戒め、諭す」なら、それは必ず争いになってしまうでしょう。ですから、私たち互いの間に「キリストの愛のことば」、「愛である知恵」をしっかり据え置きましょう。
そして、この愛である知恵の心を尽くすのは、他者に対してだけでなく、神に対してもなされるものです。まず私たちを愛してくださった主なる神に、心から愛の心で応答し、感謝するのが讃美なのです。
17節「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」
この讃美は「音にのせる歌」で終わりません。私たちが発することばにおいても、心の表れである行動においても、何をするにも、すべて主イエスを通して父なる神に感謝する讃美になるのです。私たちの発することばも行動も、すべて父なる神をほめたたえる讃美となり、すべては主イエスの御名によって成されるものとなるのです。
このように私たちの讃美は「音」を超える豊かな内容をもつものですから、私たちはその事をもっと意識していきましょう。私たちのことばも行動も、すべて主イエスの御名による感謝となり、神への讃美となるのです。
本日の招きのことばは詩篇34篇1~3節です。「私はあらゆるときに、主をほめたたえる。私の口には、いつも主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。一つになって御名をあがめよう。」
この詩の作者であるダビデは、いつでも主をたたえました。この34篇は、ダビデが命を狙われていた時の詩ですから、必ずしも音にのせて歌ったのでは無いでしょう。そうでなく、日々の歩みの中で、小さな事にも大きな事にも主に感謝した歩みであり、その生き方を歌った詩なのです。
ダビデと共に、私たちも一つになって主を讃美しましょう。状況が良い時も悪い時も、あらゆる時に、私たちも主をほめたたえましょう。8節「味わい、見つめよ。主が慈しみ深い方である事を。幸いな事よ。主に身を避ける人は。」さあ、主をほめたたえましょう。
16節「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」
讃美で大切なのは、音感でもリズム感でもありません。重要なのは「キリストのことばに生きる」という事です。キリストの語った愛のことばを、自らの内側にしっかりと根付かせ、同時に、私たち互いの関係の中に根付かせるという事です。
聖書の中で「知恵」は「愛」と同じ意味合いで使われています。ですから、ここで言う「知恵」は一般的な「いい考え」という意味ではないのです。キリストの愛のことばに生きる私たちが、愛という知恵の心を尽くしてお互いに正しく向き合う事が重要となります。愛の心抜きで、互いに「教え」たり「忠告し、戒め、諭す」なら、それは必ず争いになってしまうでしょう。ですから、私たち互いの間に「キリストの愛のことば」、「愛である知恵」をしっかり据え置きましょう。
そして、この愛である知恵の心を尽くすのは、他者に対してだけでなく、神に対してもなされるものです。まず私たちを愛してくださった主なる神に、心から愛の心で応答し、感謝するのが讃美なのです。
17節「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」
この讃美は「音にのせる歌」で終わりません。私たちが発することばにおいても、心の表れである行動においても、何をするにも、すべて主イエスを通して父なる神に感謝する讃美になるのです。私たちの発することばも行動も、すべて父なる神をほめたたえる讃美となり、すべては主イエスの御名によって成されるものとなるのです。
このように私たちの讃美は「音」を超える豊かな内容をもつものですから、私たちはその事をもっと意識していきましょう。私たちのことばも行動も、すべて主イエスの御名による感謝となり、神への讃美となるのです。
本日の招きのことばは詩篇34篇1~3節です。「私はあらゆるときに、主をほめたたえる。私の口には、いつも主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。一つになって御名をあがめよう。」
この詩の作者であるダビデは、いつでも主をたたえました。この34篇は、ダビデが命を狙われていた時の詩ですから、必ずしも音にのせて歌ったのでは無いでしょう。そうでなく、日々の歩みの中で、小さな事にも大きな事にも主に感謝した歩みであり、その生き方を歌った詩なのです。
ダビデと共に、私たちも一つになって主を讃美しましょう。状況が良い時も悪い時も、あらゆる時に、私たちも主をほめたたえましょう。8節「味わい、見つめよ。主が慈しみ深い方である事を。幸いな事よ。主に身を避ける人は。」さあ、主をほめたたえましょう。
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2025年01月18日
「みことばを行う人になる」ヤコブ書1章19~25節
19 私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
20 人の怒りは神の義を実現しないのです。
21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
22 みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。
23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。
24 眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(ヤコブ書1:19~25)
聖書は私たちに、祝福される歩みを教えています。ぜひとも祝福を受け取りましょう。
19~21節、「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
この世には二つのことばがあります。一つは神のことばです。これは私たちに愛、喜び、平安を与えてくれます。もう一つは人間のことばです。愛の神から離れた人のことばは私たちに怒りや憎しみ、不安や蔑みなど悪い感情を与えるのです。私たちは、どのことばを聴くべきなのか、どのことばを受け入れるべきなのか、どのことばが私たちを幸せにするのか等、分別が重要となります。私たちは、神の子にふさわしくない汚れ、どんどん溢れて来る悪を捨て去り、愛の神のことばを選び取り、これだけを受け入れましょう。
22~24節、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」
私たちは、聴くべきことばを分別するだけでなく、この愛の神のことばを行う人になりましょう。せっかく神のことばを聴いていながらも行わないなら、この世の歩みの中で、どのように進むべきかを忘れてしまい、この世の価値観や耳にする様々な人のことばによって影響を受けて、右に左にと揺れ動く人生となってしまいます。私たちはそのような不安定な歩みではなく、主のみことばにしっかりと根を張り、堅く立ち、みことばを行う者たちとなりましょう。
25節、「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」
愛の神のみことばは、まことの自由を私たちに与えてくださいます。それで、聖書の中にある「〇〇しなければならない」との教えも、私たちを狭く小さくする支配的で律法的なことばではなく、どこまでも私たちを愛する神が、その愛のことばをもって私たちに正しい秩序を与え、それに基づく麗しい調和の世界を創り上げてくださるのです。この神の愛が分かる者だけが、そのことばを生活の中で実践し、互いに赦し、互いを大切にし、互いに愛し、互いに生かし合う、最も幸せな祝福の人生へと進んでゆくのです。
本日の招詞も心に留めましょう。詩篇119篇50節、「これこそ悩みのときの私の慰め。まことにあなたのみことばは私を生かします。」私たちは、この世を簡単には歩めません。神の愛とは異なるこの世の価値基準は、既に私たちの心に入っていますし、愛の神から離れた人々のことばは、上手に私たちの心に入り込んで来るのです。日々の生活の中で、色々と考え、悩み、苦しみ、出口の見えない状況に陥る事もあるでしょう。その時は、私たちに愛と喜び、平安と祝福を与えてくださる父なる神のみことばに堅く立ちましょう。みことばに生きましょう。ここに最も素晴らしい祝福があるのです。
20 人の怒りは神の義を実現しないのです。
21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
22 みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。
23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。
24 眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(ヤコブ書1:19~25)
聖書は私たちに、祝福される歩みを教えています。ぜひとも祝福を受け取りましょう。
19~21節、「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
この世には二つのことばがあります。一つは神のことばです。これは私たちに愛、喜び、平安を与えてくれます。もう一つは人間のことばです。愛の神から離れた人のことばは私たちに怒りや憎しみ、不安や蔑みなど悪い感情を与えるのです。私たちは、どのことばを聴くべきなのか、どのことばを受け入れるべきなのか、どのことばが私たちを幸せにするのか等、分別が重要となります。私たちは、神の子にふさわしくない汚れ、どんどん溢れて来る悪を捨て去り、愛の神のことばを選び取り、これだけを受け入れましょう。
22~24節、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」
私たちは、聴くべきことばを分別するだけでなく、この愛の神のことばを行う人になりましょう。せっかく神のことばを聴いていながらも行わないなら、この世の歩みの中で、どのように進むべきかを忘れてしまい、この世の価値観や耳にする様々な人のことばによって影響を受けて、右に左にと揺れ動く人生となってしまいます。私たちはそのような不安定な歩みではなく、主のみことばにしっかりと根を張り、堅く立ち、みことばを行う者たちとなりましょう。
25節、「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」
愛の神のみことばは、まことの自由を私たちに与えてくださいます。それで、聖書の中にある「〇〇しなければならない」との教えも、私たちを狭く小さくする支配的で律法的なことばではなく、どこまでも私たちを愛する神が、その愛のことばをもって私たちに正しい秩序を与え、それに基づく麗しい調和の世界を創り上げてくださるのです。この神の愛が分かる者だけが、そのことばを生活の中で実践し、互いに赦し、互いを大切にし、互いに愛し、互いに生かし合う、最も幸せな祝福の人生へと進んでゆくのです。
本日の招詞も心に留めましょう。詩篇119篇50節、「これこそ悩みのときの私の慰め。まことにあなたのみことばは私を生かします。」私たちは、この世を簡単には歩めません。神の愛とは異なるこの世の価値基準は、既に私たちの心に入っていますし、愛の神から離れた人々のことばは、上手に私たちの心に入り込んで来るのです。日々の生活の中で、色々と考え、悩み、苦しみ、出口の見えない状況に陥る事もあるでしょう。その時は、私たちに愛と喜び、平安と祝福を与えてくださる父なる神のみことばに堅く立ちましょう。みことばに生きましょう。ここに最も素晴らしい祝福があるのです。
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2025年01月04日
「私たちにふさわしい礼拝」ローマ書12章1~2節
「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ロマ書12:1~2)
新たな一年を主の導きに従って、常にみことばから新しい心を与えて頂き、共に父なる神に喜んで頂く礼拝を捧げ、神の祝福と幸いの中を歩み続けましょう。
1節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」
私たちにふさわしい礼拝とは何でしょうか。この「ふさわしい」を直訳すると「ロゴス的な」です。「初めにことば(ロゴス)があった。…ことば(ロゴス)は、人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ福音書1:1~14)とあるように、神のみことばとして、世に来られた主イエスを指し示しています。
さらに「私たち自身を聖い生きた捧げ物として神に献げなさい」と勧められていますが、これは「生き方」の事です。つまり、私たちにふさわしい礼拝とは、「神のみことばにだけ従って歩まれた主イエスと同じ様な生き方をしなさい」という事なのです。では、どのような生き方なのでしょうか。
2節「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
大事な点は「この世と調子を合わせない」という事ですが、直訳すると「この世と同じ姿(あるいは基準)になるな」です。どれほどこの世が良く見えたとしても、愛の神から離れている中での繁栄であったり、幸せであったりするのです。もちろん、これらに反発したり、放棄したり、闘いを挑む必要はありませんが、私たちの意識の中には「愛の神から与えられる基準」を基に、この世を賢く歩んでいきましょう。それは、ちょうど主イエスの歩みと同じです。
福音書を読むと主イエスのお心と歩みが分かって来ます。主イエスは、父なる神の愛の心をよくご存じでしたので、その愛の心に基づいて神の助けや慰めを必要としている人々に心を向けて歩まれました。
また弟子たちは、最初はご一緒に生活していても主イエスの心を受け取らず、自分たちがイメージする救い主像を主イエスに当てはめ、それが実現するのを待ち望んでいました。ところが、人間的な発想とはまったく違った神の救い、十字架の救いと復活の御業を通して、弟子たちも次第に、主イエスの愛の心に近い者たちとさせて頂く事になった歩みを私たちは知る事ができます。
同じように、私たちも神の恵みの中で変えて頂きましょう。そうすれば神の愛の心を知れば知るほど、最も大切ないのちの関係にとって何が良い事であり、神に喜ばれる心と歩みかを見分ける事ができるようになるのです。これこそが、神の子である私たちにふさわしい礼拝であり、歩み、生き方なのです。
本日の招詞に「あなたがたの神である主の命令、主が命じられたさとしと掟を必ず守らなければならない。主の目にかなう良いことをしなさい。そうすれば、あなたは幸せになり…(申命記6:17~18)」とあります。みことばに従う歩みを通し、私たちも幸せに至りましょう。
新たな一年を主の導きに従って、常にみことばから新しい心を与えて頂き、共に父なる神に喜んで頂く礼拝を捧げ、神の祝福と幸いの中を歩み続けましょう。
1節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」
私たちにふさわしい礼拝とは何でしょうか。この「ふさわしい」を直訳すると「ロゴス的な」です。「初めにことば(ロゴス)があった。…ことば(ロゴス)は、人となって私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ福音書1:1~14)とあるように、神のみことばとして、世に来られた主イエスを指し示しています。
さらに「私たち自身を聖い生きた捧げ物として神に献げなさい」と勧められていますが、これは「生き方」の事です。つまり、私たちにふさわしい礼拝とは、「神のみことばにだけ従って歩まれた主イエスと同じ様な生き方をしなさい」という事なのです。では、どのような生き方なのでしょうか。
2節「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
大事な点は「この世と調子を合わせない」という事ですが、直訳すると「この世と同じ姿(あるいは基準)になるな」です。どれほどこの世が良く見えたとしても、愛の神から離れている中での繁栄であったり、幸せであったりするのです。もちろん、これらに反発したり、放棄したり、闘いを挑む必要はありませんが、私たちの意識の中には「愛の神から与えられる基準」を基に、この世を賢く歩んでいきましょう。それは、ちょうど主イエスの歩みと同じです。
福音書を読むと主イエスのお心と歩みが分かって来ます。主イエスは、父なる神の愛の心をよくご存じでしたので、その愛の心に基づいて神の助けや慰めを必要としている人々に心を向けて歩まれました。
また弟子たちは、最初はご一緒に生活していても主イエスの心を受け取らず、自分たちがイメージする救い主像を主イエスに当てはめ、それが実現するのを待ち望んでいました。ところが、人間的な発想とはまったく違った神の救い、十字架の救いと復活の御業を通して、弟子たちも次第に、主イエスの愛の心に近い者たちとさせて頂く事になった歩みを私たちは知る事ができます。
同じように、私たちも神の恵みの中で変えて頂きましょう。そうすれば神の愛の心を知れば知るほど、最も大切ないのちの関係にとって何が良い事であり、神に喜ばれる心と歩みかを見分ける事ができるようになるのです。これこそが、神の子である私たちにふさわしい礼拝であり、歩み、生き方なのです。
本日の招詞に「あなたがたの神である主の命令、主が命じられたさとしと掟を必ず守らなければならない。主の目にかなう良いことをしなさい。そうすれば、あなたは幸せになり…(申命記6:17~18)」とあります。みことばに従う歩みを通し、私たちも幸せに至りましょう。
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2025年01月01日
「朝ごとに神に守られる私たち」イザヤ書33章2節
「主よ、あわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに私たちの腕となり、苦難の時の、私たちの救いとなってください。」(イザヤ33:2)
新しい年となりました。皆さんは何を願い、何を祈られたでしょうか。健康であったり、平和であったり、安全であったり、繫盛や繁栄であったり、目標達成であったり、幸せであったりするかも知れません。
特に、昨年の苦難が大きければ大きかったほど、今年は苦難を遠ざけてくださるようにと願うでしょう。ただ、この世を歩む中で、避けては通れない苦難もありますので、今がその苦難の真っただ中と言う方も、今はそうでなくても今後、何らかの苦難を通る事があるかも知れない方々も、本日のみことばを心に収めて頂きたいと思います。このみことばは、私たちの心を支えてくださいます。
イザヤ書33章2節「主よ、あわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに私たちの腕となり、苦難の時の、私たちの救いとなってください。」
この祈りは、突然に出て来たものではありません。少し背景を説明すると…イスラエルの国は、主なる神から「悔い改めて立ち返りなさい」との愛のことばを何度も受けていながら、決して主なる神に頼る事をしませんでした。諸外国がイスラエルを攻めて苦境に立たせられても悔い改める事をせず、いつも自分たちの判断が正しいと思い、人間的な発想や方法で危機を脱しようとします。
たとえ一時的にはうまくいっているように思えたとしても、これら人間的な発想や方法では、必ず誰かが傷つき、踏みにじられ、辛い思いをしているものです。これらが、いつかはひっくり返り、思ってもみなかった状況に陥る事もあるのです。それでもイスラエルは悔い改めませんでした。
そこで、神の愛の心を知っているイザヤは、主なる神の愛の心に訴え、あつく祈ったのです。私たちは、たとえ苦境にあっても決して悔い改めないイスラエルにではなく、私たちもイザヤに心を合わせ、神の愛の心に頼りましょう。主なる神の守りと助けを待ち望みましょう。このまことの神だけが、朝ごとに私たちの腕となり、力強い助けとなり、苦難の時の私たちの救いとなってくださるのです。
ここで大切な事は「朝ごとに」神が私たちの腕となってくださるという事です。イスラエルでは、一日は「夕の日没」から始まります。やがて、どんなに真っ暗な闇があっても、必ず光の「朝」が与えられるのを毎日の生活の中で教えられているのです。たとえどんなに闇が大きくても、たとえ自分の力でどうにもできない状況であっても、苦しい状況、悲しい状況であっても、神は必ず光の朝を与えてくださり、その朝ごとに私たちの力強い腕となり、私たちを守り、支え、祝福してくださるのです。このように主は私たちの救いとなり、確かな望みとなってくださるのです。
まことの神の愛を知らない人たちは「苦しい時の神頼み」と言ってあざけるかもしれません。しかし、誰しも人生の中で苦しい所を通るのですから、自分ではどうにもできないその苦しい時に、寄り頼む方がいないのは悲劇でしかないでしょう。しかし、私たちには、苦しい時にこそ寄り頼む主なる神がおられるのは、何という幸いでしょうか。
本日の招詞は、神の絶大な守りへと私たちを導いてくださいます。「苦難の日に、主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。(詩篇20:1)」神の子であるあなたの苦難の日に、父なる神が確かに応えてくださるのです。この父の愛に信頼して歩み続けましょう。
新しい年となりました。皆さんは何を願い、何を祈られたでしょうか。健康であったり、平和であったり、安全であったり、繫盛や繁栄であったり、目標達成であったり、幸せであったりするかも知れません。
特に、昨年の苦難が大きければ大きかったほど、今年は苦難を遠ざけてくださるようにと願うでしょう。ただ、この世を歩む中で、避けては通れない苦難もありますので、今がその苦難の真っただ中と言う方も、今はそうでなくても今後、何らかの苦難を通る事があるかも知れない方々も、本日のみことばを心に収めて頂きたいと思います。このみことばは、私たちの心を支えてくださいます。
イザヤ書33章2節「主よ、あわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに私たちの腕となり、苦難の時の、私たちの救いとなってください。」
この祈りは、突然に出て来たものではありません。少し背景を説明すると…イスラエルの国は、主なる神から「悔い改めて立ち返りなさい」との愛のことばを何度も受けていながら、決して主なる神に頼る事をしませんでした。諸外国がイスラエルを攻めて苦境に立たせられても悔い改める事をせず、いつも自分たちの判断が正しいと思い、人間的な発想や方法で危機を脱しようとします。
たとえ一時的にはうまくいっているように思えたとしても、これら人間的な発想や方法では、必ず誰かが傷つき、踏みにじられ、辛い思いをしているものです。これらが、いつかはひっくり返り、思ってもみなかった状況に陥る事もあるのです。それでもイスラエルは悔い改めませんでした。
そこで、神の愛の心を知っているイザヤは、主なる神の愛の心に訴え、あつく祈ったのです。私たちは、たとえ苦境にあっても決して悔い改めないイスラエルにではなく、私たちもイザヤに心を合わせ、神の愛の心に頼りましょう。主なる神の守りと助けを待ち望みましょう。このまことの神だけが、朝ごとに私たちの腕となり、力強い助けとなり、苦難の時の私たちの救いとなってくださるのです。
ここで大切な事は「朝ごとに」神が私たちの腕となってくださるという事です。イスラエルでは、一日は「夕の日没」から始まります。やがて、どんなに真っ暗な闇があっても、必ず光の「朝」が与えられるのを毎日の生活の中で教えられているのです。たとえどんなに闇が大きくても、たとえ自分の力でどうにもできない状況であっても、苦しい状況、悲しい状況であっても、神は必ず光の朝を与えてくださり、その朝ごとに私たちの力強い腕となり、私たちを守り、支え、祝福してくださるのです。このように主は私たちの救いとなり、確かな望みとなってくださるのです。
まことの神の愛を知らない人たちは「苦しい時の神頼み」と言ってあざけるかもしれません。しかし、誰しも人生の中で苦しい所を通るのですから、自分ではどうにもできないその苦しい時に、寄り頼む方がいないのは悲劇でしかないでしょう。しかし、私たちには、苦しい時にこそ寄り頼む主なる神がおられるのは、何という幸いでしょうか。
本日の招詞は、神の絶大な守りへと私たちを導いてくださいます。「苦難の日に、主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。(詩篇20:1)」神の子であるあなたの苦難の日に、父なる神が確かに応えてくださるのです。この父の愛に信頼して歩み続けましょう。
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│イザヤ書│詩篇│まことの幸せを求める│神を信頼して歩む│苦しみや悲しみ、絶望の時│他者のことばに悩む時│恐れや不安、心配がある時│神のみことばに堅く立つ│神の守りと助けを求める時│世の矛盾に心うばわれる時│人間関係や状況で苦しい時
2024年12月28日
「最善をなさる神に感謝する」詩篇103篇1~5節
1.わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。
2.わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
3.主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、
4.あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、
5.あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。(詩篇103:1~5)
2024年を振り返り、皆さんの歩み、そして教会の歩みはいかがだったでしょうか。教会にとっては数年の間、無牧(牧師がいない状態)でしたが、当教会や関係する諸教会の祈りに応えてくださった主なる神が、新しい牧師を立ててくださった年となりました。この事を通して、主なる神は、最善な時に、最善な方法で、私たちの祈りに応えてくださる方であると再認識し、感謝しました。また、牧師と執事会が一つになって教会の歩みのリードを取り、教会に集われる皆が一つとなって、主の御前を歩む年となりました。迎える新しい年も、皆で喜び感謝しつつ、主の御前を歩んで参りましょう。
1節~、「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
私たちは、肉体的あるいは物質的に満たされる事だけを喜ぶ者たちであってはなりません。これは神を知らない人たちだって喜ぶのです。神の愛を知っている私たちは、もちろんこれらを喜びつつも、これらを大きく超える神の恵みを見落とす者であってはなりません。ですからダビデは「わがたましいよ!」と自らの内側のたましいを奮い立たせ、霊的に物事を見るように意識しているのです。
すると見えてくるのです。一見すると、私たちの願いと異なる結果である、あれもこれも、実は、私たちの願いをはるかに超える神の愛の中にあって、私たちにとっては最も良いものであり、良いタイミングであり、神の最善であると分かるのです。ですからダビデは「主が良くしてくださった事を何一つ忘れるな」と、自らのたましいに言い聞かせているのです。今は良いと思えない事もすべて、主がくださる良い事であるのです。私たちもダビデのことばに心を合わせ、「アーメン(その通りですの意味)」と感謝しましょう。
3節~、「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」
私たちは、肉体だけで生きている者たちではありません。心があり、たましいがあります。私たちの肉体だけでなく、心とたましいが生かされているのは、いのちの主である神が、私たちの咎や罪を赦してくださったからです。すべて愛の神の御業です。肉体の病だけでなく、霊的病の最たるのもが「罪」ですから、この罪を赦され、神の子とされている事に心から感謝しましょう。
父である主なる神は、私たち神の子に愛と恵みを豊かに与え続けてくださり、私たちの一生を良いもので満ち足らせてくださいます。私たちは、空高く飛ぶ鷲のように、導いてくださる主なる神に、どんどん近づく者とさせて頂くのです。
本日の招詞にも心に留めましょう。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」(1テモテ4章4~5節)
目に見える物、見えないもの、あらゆるものはすべて、主なる神が私たちを愛するがゆえに創られ、与えてくださいました。これらを「良いもの」として受け取り、神に感謝し、共に祈り励まし合いつつ、歩み続けましょう。
2.わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
3.主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、
4.あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、
5.あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。(詩篇103:1~5)
2024年を振り返り、皆さんの歩み、そして教会の歩みはいかがだったでしょうか。教会にとっては数年の間、無牧(牧師がいない状態)でしたが、当教会や関係する諸教会の祈りに応えてくださった主なる神が、新しい牧師を立ててくださった年となりました。この事を通して、主なる神は、最善な時に、最善な方法で、私たちの祈りに応えてくださる方であると再認識し、感謝しました。また、牧師と執事会が一つになって教会の歩みのリードを取り、教会に集われる皆が一つとなって、主の御前を歩む年となりました。迎える新しい年も、皆で喜び感謝しつつ、主の御前を歩んで参りましょう。
1節~、「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
私たちは、肉体的あるいは物質的に満たされる事だけを喜ぶ者たちであってはなりません。これは神を知らない人たちだって喜ぶのです。神の愛を知っている私たちは、もちろんこれらを喜びつつも、これらを大きく超える神の恵みを見落とす者であってはなりません。ですからダビデは「わがたましいよ!」と自らの内側のたましいを奮い立たせ、霊的に物事を見るように意識しているのです。
すると見えてくるのです。一見すると、私たちの願いと異なる結果である、あれもこれも、実は、私たちの願いをはるかに超える神の愛の中にあって、私たちにとっては最も良いものであり、良いタイミングであり、神の最善であると分かるのです。ですからダビデは「主が良くしてくださった事を何一つ忘れるな」と、自らのたましいに言い聞かせているのです。今は良いと思えない事もすべて、主がくださる良い事であるのです。私たちもダビデのことばに心を合わせ、「アーメン(その通りですの意味)」と感謝しましょう。
3節~、「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」
私たちは、肉体だけで生きている者たちではありません。心があり、たましいがあります。私たちの肉体だけでなく、心とたましいが生かされているのは、いのちの主である神が、私たちの咎や罪を赦してくださったからです。すべて愛の神の御業です。肉体の病だけでなく、霊的病の最たるのもが「罪」ですから、この罪を赦され、神の子とされている事に心から感謝しましょう。
父である主なる神は、私たち神の子に愛と恵みを豊かに与え続けてくださり、私たちの一生を良いもので満ち足らせてくださいます。私たちは、空高く飛ぶ鷲のように、導いてくださる主なる神に、どんどん近づく者とさせて頂くのです。
本日の招詞にも心に留めましょう。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」(1テモテ4章4~5節)
目に見える物、見えないもの、あらゆるものはすべて、主なる神が私たちを愛するがゆえに創られ、与えてくださいました。これらを「良いもの」として受け取り、神に感謝し、共に祈り励まし合いつつ、歩み続けましょう。
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│詩篇│まことの幸せを求める│喜び感謝して歩む│神を信頼して歩む│苦しみや悲しみ、絶望の時│他者のことばに悩む時│恐れや不安、心配がある時│神のみことばに堅く立つ│神の守りと助けを求める時│世の矛盾に心うばわれる時│人間関係や状況で苦しい時│Ⅰテモテ
2024年12月21日
「救い主イエスを礼拝する」ルカ福音書2章1~14節
1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:1~14)
クリスマスを英語では「Christmas」と書きますが、これは「Christ」キリスト+「mas」はラテン語「mass」ミサ(礼拝)が合わさった用語です。つまり、イエス・キリストの誕生を喜び祝い、感謝し、礼拝するのがクリスマスの意味です。また、世界の歴史を表す年代表記で一般的なのは「西暦」ですが、これはイエス・キリストの誕生を境に、歴史を「BC紀元前」と「AD紀元」に分けた表記です。
1節~、主イエスの誕生は昔話でも作り話でもなく、歴史的事実であるとはっきり分かります。全世界を統治していたローマ帝国では、政治的な出来事や社会的な出来事などを書き残す書記官が多数いました。そして、全世界の住民登録を命じたのは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスです。更に、キリニウスがシリアの総督であった時の最初の住民登録だった事で、時代がある程度特定できるのです。
また、この福音書を記したルカは医者であり、「すべての事を最初から綿密に調べており、これを順序立てて書いて」(ルカ1:3)と、テオフィロ様に献上している事から、これが歴史的事実であると分かるのです。特に、ここで注目すべきは、住民登録という世界中が慌ただしい動きの中で、「宿屋に入れる場所が無く、生まれた主イエスは飼葉桶に寝かされた」という事です。実は、これが重要な意味を持つ事になります。
8節~、野宿をしていた羊飼いたちに、主の使いが現れたので彼らは恐れました。御使いは言います。「恐れるな。見よ。私はこの民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主が生まれた。この方こそ主キリストである。あなたがたは布にくるまって飼葉桶に寝ている嬰児を見つける。それが、あなたがたのためのしるしだ。」すると大勢の天の軍勢が現れて神を讃美します。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように。」
これらのことばを世界で最初に受け取ったのが羊飼いたちでした。当時、羊飼いたちは社会的な権利や責任を与えられず、今で言う「社会的弱者」でありました。その羊飼いたちに最初に大きな喜びの知らせが与えられた事から、強い者が中心になっているこの世を超える、神の愛の大きさを知る事が出来ます。
羊飼いたちは、御使いが語った「あなたがたのためのしるし」に躓かない、バカにしない、無視しない人たちだったのです。その証拠に、彼らは御使いのことばを頼りにベツレヘムまで行って、飼葉桶に寝ている嬰児を探し出し、救い主イエスを礼拝したのです。
残念ながら多くの人は、自らの事や生活で忙しく「飼葉桶に寝かせられている」方を救い主として受け入れられません。また、目に見えない神、天地を創造されたまことの神を受け入れられません。そして、神の愛を現わすために世に生まれ、私たちのために十字架にかかってくださった主イエスの救いを受け入れられません。とても残念な事です。
本日の招詞は「神の愛」を一言で表しているみことばです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。(ヨハネ3:16)」 時代や社会の動きに流され、そして生活に追われる忙しい毎日にあっても、あるいは色々な意味で社会的に弱い立場だとしても、私たちは本日のようにキリストを礼拝していきましょう。これこそが、神の愛と恵みを豊かに受ける祝福となるのです。
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:1~14)
クリスマスを英語では「Christmas」と書きますが、これは「Christ」キリスト+「mas」はラテン語「mass」ミサ(礼拝)が合わさった用語です。つまり、イエス・キリストの誕生を喜び祝い、感謝し、礼拝するのがクリスマスの意味です。また、世界の歴史を表す年代表記で一般的なのは「西暦」ですが、これはイエス・キリストの誕生を境に、歴史を「BC紀元前」と「AD紀元」に分けた表記です。
1節~、主イエスの誕生は昔話でも作り話でもなく、歴史的事実であるとはっきり分かります。全世界を統治していたローマ帝国では、政治的な出来事や社会的な出来事などを書き残す書記官が多数いました。そして、全世界の住民登録を命じたのは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスです。更に、キリニウスがシリアの総督であった時の最初の住民登録だった事で、時代がある程度特定できるのです。
また、この福音書を記したルカは医者であり、「すべての事を最初から綿密に調べており、これを順序立てて書いて」(ルカ1:3)と、テオフィロ様に献上している事から、これが歴史的事実であると分かるのです。特に、ここで注目すべきは、住民登録という世界中が慌ただしい動きの中で、「宿屋に入れる場所が無く、生まれた主イエスは飼葉桶に寝かされた」という事です。実は、これが重要な意味を持つ事になります。
8節~、野宿をしていた羊飼いたちに、主の使いが現れたので彼らは恐れました。御使いは言います。「恐れるな。見よ。私はこの民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主が生まれた。この方こそ主キリストである。あなたがたは布にくるまって飼葉桶に寝ている嬰児を見つける。それが、あなたがたのためのしるしだ。」すると大勢の天の軍勢が現れて神を讃美します。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように。」
これらのことばを世界で最初に受け取ったのが羊飼いたちでした。当時、羊飼いたちは社会的な権利や責任を与えられず、今で言う「社会的弱者」でありました。その羊飼いたちに最初に大きな喜びの知らせが与えられた事から、強い者が中心になっているこの世を超える、神の愛の大きさを知る事が出来ます。
羊飼いたちは、御使いが語った「あなたがたのためのしるし」に躓かない、バカにしない、無視しない人たちだったのです。その証拠に、彼らは御使いのことばを頼りにベツレヘムまで行って、飼葉桶に寝ている嬰児を探し出し、救い主イエスを礼拝したのです。
残念ながら多くの人は、自らの事や生活で忙しく「飼葉桶に寝かせられている」方を救い主として受け入れられません。また、目に見えない神、天地を創造されたまことの神を受け入れられません。そして、神の愛を現わすために世に生まれ、私たちのために十字架にかかってくださった主イエスの救いを受け入れられません。とても残念な事です。
本日の招詞は「神の愛」を一言で表しているみことばです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。(ヨハネ3:16)」 時代や社会の動きに流され、そして生活に追われる忙しい毎日にあっても、あるいは色々な意味で社会的に弱い立場だとしても、私たちは本日のようにキリストを礼拝していきましょう。これこそが、神の愛と恵みを豊かに受ける祝福となるのです。
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2024年12月14日
「主のみことばに従う平安な道」マタイ福音書1章18~25節
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。(マタイ1:18~25)
実に私たちは、多くの事柄を自分の基準に基づいて考えて事を決め、時にそれを実行に移します。多少は衝動的になる事もあるでしょうが、重要であればあるほど、よく考えるでしょう。ただ、自らの内で熟考したからと言って、必ずしも良い道とは限りません。
18節~、婚約者のマリアが、まだ一緒にならないうちに身ごもった事が分かり、ヨセフは色々と考えました。マリアから、天使とのやりとりを聞き(詳しくはルカ福音書1:26~を参照)、聖霊によって身ごもったと分かりましたが、マリアにとって最善な道を選んだ結論が「離縁」だったのです。「正しい人」であるヨセフは、色々と問われてしまうと正直に話すでしょうからマリアの立場が悪くなり、不貞の罪を犯した女として人前にさらされるのを避けるため、密かに離縁しようと考えたのです。主の教えや律法に対しても正しく、どうにか助けたい愛するマリアに対しても正しい選択とヨセフは考えたのです。
20節~、ところが夢に主の使いが現れて「ダビデの子ヨセフよ。恐れずにマリアを妻として迎えよ。その胎の子は聖霊によるのだ。マリアは男の子を産む。名をイエスとつけよ。この方が、ご自分の民をその罪から救う方である」と言われました。そして、この出来事が旧約聖書の預言の成就だったです。「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエル(神が私たちと共におられるの意味)と呼ばれる。(イザヤ書7:14)」という主の約束が実現したのです。これらの事を通して教えられるのは、「私たちは神に忘れられてはいない。神に見捨てられてもいない。神は私たちと共にいてくださる」という恵みです。これはイスラエルの民だけでなく、現在の私たちに対しても確かな恵みとなるのです。苦しく、先行きの不安に押しつぶされそうな時こそ、インマヌエルの主に信頼しましょう。
24節~、ヨセフは主の使いが命じられた通り、つまり主のみことばの通りに従いました。これがヨセフの素晴らしさです。自分の中にあった「正しさ」に従って色々と考えた道を選択しようとしましたが、主のみことばが与えられた時、自らの考えや思いを捨て、主のみことばに従う事を自らの道として選択したのです。これが本当の「義(ただ)しさ」となりました。この事を通して、ヨセフとマリアに神からの平安な道が与えられていくのです。約束の男の子が産まれた時、御使いがマリアとヨセフそれぞれに告げた通り、その名を「イエス」とつけました。イエスとは「主は救う」という意味です。つまり「主は私たちと共にいてくださり、私たちを守り、助け、救い、生かしてくださる」事を教えてくださいます。その事を私たちは確かな事として確信し、ますます主に信頼して歩みましょう。
本日の招詞は「私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行う時、それは私たちの義となるのである。(申命記6:25)」でした。私たちのそれぞれの歩みの中で、自らの正しさから来る思いを主のみことばによって照らして頂きましょう。私たちの後々までをご存じの主なる神が共にいてくださり、私たちを守り、助け、救い、生かしてくださるみことばと思いとを与えてくださり、それによって私たちが神の義の中を勇ましく歩む事ができますように。そして、その歩みこそが、私たちの平安な道となりますように。
20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。(マタイ1:18~25)
実に私たちは、多くの事柄を自分の基準に基づいて考えて事を決め、時にそれを実行に移します。多少は衝動的になる事もあるでしょうが、重要であればあるほど、よく考えるでしょう。ただ、自らの内で熟考したからと言って、必ずしも良い道とは限りません。
18節~、婚約者のマリアが、まだ一緒にならないうちに身ごもった事が分かり、ヨセフは色々と考えました。マリアから、天使とのやりとりを聞き(詳しくはルカ福音書1:26~を参照)、聖霊によって身ごもったと分かりましたが、マリアにとって最善な道を選んだ結論が「離縁」だったのです。「正しい人」であるヨセフは、色々と問われてしまうと正直に話すでしょうからマリアの立場が悪くなり、不貞の罪を犯した女として人前にさらされるのを避けるため、密かに離縁しようと考えたのです。主の教えや律法に対しても正しく、どうにか助けたい愛するマリアに対しても正しい選択とヨセフは考えたのです。
20節~、ところが夢に主の使いが現れて「ダビデの子ヨセフよ。恐れずにマリアを妻として迎えよ。その胎の子は聖霊によるのだ。マリアは男の子を産む。名をイエスとつけよ。この方が、ご自分の民をその罪から救う方である」と言われました。そして、この出来事が旧約聖書の預言の成就だったです。「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエル(神が私たちと共におられるの意味)と呼ばれる。(イザヤ書7:14)」という主の約束が実現したのです。これらの事を通して教えられるのは、「私たちは神に忘れられてはいない。神に見捨てられてもいない。神は私たちと共にいてくださる」という恵みです。これはイスラエルの民だけでなく、現在の私たちに対しても確かな恵みとなるのです。苦しく、先行きの不安に押しつぶされそうな時こそ、インマヌエルの主に信頼しましょう。
24節~、ヨセフは主の使いが命じられた通り、つまり主のみことばの通りに従いました。これがヨセフの素晴らしさです。自分の中にあった「正しさ」に従って色々と考えた道を選択しようとしましたが、主のみことばが与えられた時、自らの考えや思いを捨て、主のみことばに従う事を自らの道として選択したのです。これが本当の「義(ただ)しさ」となりました。この事を通して、ヨセフとマリアに神からの平安な道が与えられていくのです。約束の男の子が産まれた時、御使いがマリアとヨセフそれぞれに告げた通り、その名を「イエス」とつけました。イエスとは「主は救う」という意味です。つまり「主は私たちと共にいてくださり、私たちを守り、助け、救い、生かしてくださる」事を教えてくださいます。その事を私たちは確かな事として確信し、ますます主に信頼して歩みましょう。
本日の招詞は「私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行う時、それは私たちの義となるのである。(申命記6:25)」でした。私たちのそれぞれの歩みの中で、自らの正しさから来る思いを主のみことばによって照らして頂きましょう。私たちの後々までをご存じの主なる神が共にいてくださり、私たちを守り、助け、救い、生かしてくださるみことばと思いとを与えてくださり、それによって私たちが神の義の中を勇ましく歩む事ができますように。そして、その歩みこそが、私たちの平安な道となりますように。
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2024年11月30日
「父なる神の愛の中を歩む」創世記3章14~15節
14.神である主は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。
15.わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:14~15)
いよいよクリスマスを前に、教会歴で待降節(アドベント)に入ります。これには二つの意味合いがあります。①神が約束された救い主のご降誕を待ち望む。②終末(恐怖ではなくすべての完成)に来られる救い主を待ち望むです。私たちはこの時期、すでに実現した①の約束を聖書から再確認し、そして、いまだ実現していない②の約束を神の確かな約束として受け止め、ますます主なる神に信頼する思いを強くするのがアドベントの恵みとなります。
そもそも何故、主イエスが世に来られる必要があったのでしょうか。それも救い主として来られるとは、私たちが何から救い出される必要があったのでしょうか。この疑問に答えてくれるのが、本日の聖書個所です。
創世記3章には、創造主である神と被造物である人(アダムとエバ)が、ひとつの麗しい関係であったにも関わらず、蛇(サタン)がアダムとエバをだまし、神のことばに逆らわせて、神と人とのひとつの関係を壊した事が記されています。人は、蛇の言葉に従った事により、同時に神のことばを捨てる事になったのです。この事を聖書は「罪」と表現し、すべての人は、神のことばより他の言葉に従ってしまう罪をもっている(原罪と表現されます)ので、まことの神が分からず、他の物を神として拝んでしまったり、神はいないと考えたり、物欲に支配される人生になってしまったりするのです。
このような状態は、人間の精神力や悟り、難行苦行などで脱する事ができないのは、人の歴史を見れば分ります。まことの神のことば、愛のことばを知らない「罪」から私たちを救い出し、まことの愛をもつ人生に歩ませるために、救い主イエスがこの世に来られる必要があったのです。
14節は、神の愛の中から人を奪い取った蛇に対する裁きのことばです。とても強い語調で記されています。まことの神と人との関係を壊した蛇は、あらゆる家畜、あらゆる野の生き物の中で、最も永遠に呪われた存在となると神は言われました。それほど人に対する神の愛の思いが大きい事を教えられます。愛する子である人をサタンに奪われた、父なる神の愛の心がひどく傷んでいる事が分るでしょう。愛する対象がサタンによって奪われてしまったのです。
15節は、聖書の中で最初に出て来るメシヤ(メサイヤ・救い主)預言です。すべての人は罪の支配に生きる事になってしまい、自力で抜け出す事が出来ないので、神ご自身がサタンに決定的な一撃を加えると言われました。それが「敵意」です。これはサタンの思い(もしくは人がもってしまっている自己中心な思い)とまったく違う正反対の思いの事です。つまり「愛」なのです。
この神の完全な愛を世に明確に現わしてくだったのが主イエスであり、この方の愛の中に導き入れられた私たちは、私たちを罪の支配から取り戻してくださった神を「私たちの父」と呼ぶ事ができるのです。本日の招詞は、歓喜の内に何度も読み味わいましょう。「時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」(ガラテヤ書4:4~6)
主なる神が、私たちを神の子として取り戻そうと、父の愛の心を尽くしてくださるのが分かるでしょう。この父の愛が私たちに注がれているので、神の子とされた私たちには全き平安が与えられるのです。感謝。
15.わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:14~15)
いよいよクリスマスを前に、教会歴で待降節(アドベント)に入ります。これには二つの意味合いがあります。①神が約束された救い主のご降誕を待ち望む。②終末(恐怖ではなくすべての完成)に来られる救い主を待ち望むです。私たちはこの時期、すでに実現した①の約束を聖書から再確認し、そして、いまだ実現していない②の約束を神の確かな約束として受け止め、ますます主なる神に信頼する思いを強くするのがアドベントの恵みとなります。
そもそも何故、主イエスが世に来られる必要があったのでしょうか。それも救い主として来られるとは、私たちが何から救い出される必要があったのでしょうか。この疑問に答えてくれるのが、本日の聖書個所です。
創世記3章には、創造主である神と被造物である人(アダムとエバ)が、ひとつの麗しい関係であったにも関わらず、蛇(サタン)がアダムとエバをだまし、神のことばに逆らわせて、神と人とのひとつの関係を壊した事が記されています。人は、蛇の言葉に従った事により、同時に神のことばを捨てる事になったのです。この事を聖書は「罪」と表現し、すべての人は、神のことばより他の言葉に従ってしまう罪をもっている(原罪と表現されます)ので、まことの神が分からず、他の物を神として拝んでしまったり、神はいないと考えたり、物欲に支配される人生になってしまったりするのです。
このような状態は、人間の精神力や悟り、難行苦行などで脱する事ができないのは、人の歴史を見れば分ります。まことの神のことば、愛のことばを知らない「罪」から私たちを救い出し、まことの愛をもつ人生に歩ませるために、救い主イエスがこの世に来られる必要があったのです。
14節は、神の愛の中から人を奪い取った蛇に対する裁きのことばです。とても強い語調で記されています。まことの神と人との関係を壊した蛇は、あらゆる家畜、あらゆる野の生き物の中で、最も永遠に呪われた存在となると神は言われました。それほど人に対する神の愛の思いが大きい事を教えられます。愛する子である人をサタンに奪われた、父なる神の愛の心がひどく傷んでいる事が分るでしょう。愛する対象がサタンによって奪われてしまったのです。
15節は、聖書の中で最初に出て来るメシヤ(メサイヤ・救い主)預言です。すべての人は罪の支配に生きる事になってしまい、自力で抜け出す事が出来ないので、神ご自身がサタンに決定的な一撃を加えると言われました。それが「敵意」です。これはサタンの思い(もしくは人がもってしまっている自己中心な思い)とまったく違う正反対の思いの事です。つまり「愛」なのです。
この神の完全な愛を世に明確に現わしてくだったのが主イエスであり、この方の愛の中に導き入れられた私たちは、私たちを罪の支配から取り戻してくださった神を「私たちの父」と呼ぶ事ができるのです。本日の招詞は、歓喜の内に何度も読み味わいましょう。「時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」(ガラテヤ書4:4~6)
主なる神が、私たちを神の子として取り戻そうと、父の愛の心を尽くしてくださるのが分かるでしょう。この父の愛が私たちに注がれているので、神の子とされた私たちには全き平安が与えられるのです。感謝。
Posted by 沖縄天久神の教会 at
19:04
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