2025年02月01日

「父なる神の愛の心を悟る祈り」マタイ福音書6章5~15節

私たちの信仰生活に不可欠な「祈り」について、主イエスが教えてくださっていますので、その心を受け取りましょう。

 5節~「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らは、すでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
 私たちの祈りは、父なる神に向かわなければなりません。間違っても人に向かってはならないのです。人に見せるため、聞かせるための祈りは、神に届かないからです。私たちの心がどこに向いているのかが重要です。
 そう言う意味では、人前での祈りは難しいと言えます。人に聞かせるためでなく、でも一緒に「アーメン」と祈ってもらうためには、内容を分かってもらう必要があると思うからです。しかし重要なのは「内容やことば使い」ではなく「神の心を知る」事です。

 7節~「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」
 特定のことばを繰り返すから、その祈りが聞かれる訳ではありません。それは神を知らない人がする事だと主イエスは言われました。「父である神の愛の心を知る事」が重要なのです。父なる神は、子である私たちが祈る前からすべてをご存じであり、私たちに必要で最も良いものや状況を豊かに与えてくださると、主イエスは言われるのです。

 9節~「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」
 主イエスは、天の父なる神の愛の心に信頼してすべてを委ね、すべてに感謝する者たちとなるように「祈るべきはこうです」と教えられたのが「主の祈り」です。その内容は「神様、こうしてください、ああしてください」ではなく、これを祈る度ごとに「父なる神の愛の心」をより深く悟るようになり、自らの心として受け取れるようになるのです。

 本日の招詞はエレミヤ書29章11~12節です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。」
 父なる神が私たちに与えるのは、平安であり、いつまでも続く望みであり、祝福です。この父なる神の愛の心に信頼する者の祈りを、確かに聞いてくださるとの約束に堅く立ち、感謝しつつ心から祈り、共に歩みましょう。



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