2025年05月24日
「神の愛が私たちの心に注がれている」 ローマ書5章1~8節
私たちは、神への礼拝、神の子たち互いの交わりの豊かさを喜んでいるでしょう。信仰によって神に義と認められ、神の子として頂きました。これはとても大きな恵みです。
1節~「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」
この恵みが与えられたのは「ただ信じるだけ」と言われても誤解してはいけません。この恵みは「ただ」ではなく「キリストのいのち」の犠牲があるのです。この最も重要な事を決して忘れてはなりません。「キリストによって私たちは、この恵みに導きいれられた」事を喜びましょう。
3節~「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
信仰から来る喜びは、現実と乖離していては力を失います。私たちに与えられる喜びは、苦しみの多い現実や日常生活を受け、この苦しみが変化するのを実感するのです。私たちが心身に受ける多くの苦しみは、キリストのいのち(私たちのために十字架にかかり死に、そして死に打ち勝って蘇ってくださった勝利の主)を通して見るならば、苦しみが変化し、やがてこれがもたらす神への深い信頼に到達するのです。目の前の苦しみだけに目をうばわれる事なく、これらが私たちにもたらす、神からの恵みをも見い出す者となりましょう。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」のです。
6節~「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
最初から信仰の強い者はいません。私たちは皆、信仰のスタートがあり、よく分からない弱い時期があったはずです。その時にあっても、主イエスが私たちのために、いのちを尽くして死んでくださった事により、私たちは、主イエスに絶大な愛で愛されている事が分かるのです。これが神の愛なのです。
本日の招詞、「私たちの神、主の慈愛が私たちの上にありますように。私たちのために、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(詩篇90:17)
この祈りの願いは、キリストのいのちを通して見る時に、ただの願いではなく、確実な力強い宣言となります。私たちは、キリストの尊いいのちをもって贖われた神の子たちです。その私たちのため、主なる神は、慈愛を私たちの上に置いてくださり、尊いいのちのために用いる私たちの手の業を豊かに祝福してくださるのです。
1節~「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」
この恵みが与えられたのは「ただ信じるだけ」と言われても誤解してはいけません。この恵みは「ただ」ではなく「キリストのいのち」の犠牲があるのです。この最も重要な事を決して忘れてはなりません。「キリストによって私たちは、この恵みに導きいれられた」事を喜びましょう。
3節~「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
信仰から来る喜びは、現実と乖離していては力を失います。私たちに与えられる喜びは、苦しみの多い現実や日常生活を受け、この苦しみが変化するのを実感するのです。私たちが心身に受ける多くの苦しみは、キリストのいのち(私たちのために十字架にかかり死に、そして死に打ち勝って蘇ってくださった勝利の主)を通して見るならば、苦しみが変化し、やがてこれがもたらす神への深い信頼に到達するのです。目の前の苦しみだけに目をうばわれる事なく、これらが私たちにもたらす、神からの恵みをも見い出す者となりましょう。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」のです。
6節~「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
最初から信仰の強い者はいません。私たちは皆、信仰のスタートがあり、よく分からない弱い時期があったはずです。その時にあっても、主イエスが私たちのために、いのちを尽くして死んでくださった事により、私たちは、主イエスに絶大な愛で愛されている事が分かるのです。これが神の愛なのです。
本日の招詞、「私たちの神、主の慈愛が私たちの上にありますように。私たちのために、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(詩篇90:17)
この祈りの願いは、キリストのいのちを通して見る時に、ただの願いではなく、確実な力強い宣言となります。私たちは、キリストの尊いいのちをもって贖われた神の子たちです。その私たちのため、主なる神は、慈愛を私たちの上に置いてくださり、尊いいのちのために用いる私たちの手の業を豊かに祝福してくださるのです。
Posted by 沖縄天久神の教会 at 11:28│Comments(0)
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