2024年11月25日
「おごり高ぶらない心で歩む」詩篇131篇1~3節
主よ、私の心はおごらず私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに私は足を踏み入れません。まことに私は、私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待ち望め。(詩篇131:1~3)
私たちは、色々な出来事を見聞きします。過去の出来事や目の前で起こっている事だけでなく、今後予測される事にまで思いを向けるでしょう。また、目の前の出来事が大きければ大きいほど、たくさんの人が巻き込まれて色々な思いが錯綜する事もあるでしょう。色々な意見や考えに影響を受け、右に左に振り回されて大変な状況になる事もあるでしょう。自らだけでなく、その影響は家族にまで及び、大切にしたい家庭までも平安を失う事になりかねません。そうならないために、本日のみことばを心に堅く据え置きましょう。
1節「主よ、私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに、私は足を踏み入れません。」
何かを見聞きすると、実に私たちは瞬時に物事を判断し、その良し悪しを口にしやすい者たちです。自らがすべて事の次第を知り把握している訳でもなく、ごく一部しか知り得ないにも関わらず、その結果を予測しているに過ぎないのに、すぐに「こうだ、ああだ」と反応しやすい性格や内面を自覚する事は、とても大切な事です。
ダビデは、自らの分をわきまえる知恵の心を大切にしました。自らの心が、神の前にも人の前にも決しておごり高ぶる事の無いよう、常に自らの心を守っていたのです。この事を神にいつも祈り求め、高ぶらない歩みを目指していた事でしょう。
2節「まことに私は、私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります。」
自らの分をわきまえ、心おごらず高ぶらない歩みは簡単な事ではありません。ダビデのように意識する事が重要です。そうしないと私たちは、いとも簡単におごり高ぶってしまうからです。「乳離れして自立していながらも、決して母の教えから離れない子としての正しい心が、自らもつべき心だ」と強く意識して、常に自らの心を「和らげ静め落ち着かせた」のです。そうしないと、すぐおごり高ぶりやすい傾向性を正しく自覚した姿と言えます。
箴言26;17には「自分に関係のない争いにいきり立つ者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。」とあります。私たちは、見聞きするこの事は、自らが関わるべき当事者なのか、事に当たらないといけない責任者なのか、足を踏み入れるべき立場なのか等々、冷静になって判断すべきです。決して見聞きして、すぐにいりきたって反応してはいけません。私たちもダビデのように、常に自らの心を和らげ静め落ち着かせるよう意識しましょう。
3節「イスラエルよ、今よりとこしえまで主を待ち望め。」
これは一国家に向けた教えではなく、まことの神に寄り頼む者たち全体を指しています。つまり私たちに対して、罪ある者たちの色々な言動の影響下にありながらも、最終的には、すべての事を治める主なる神にだけ望みを置きつつ、この世を堅く立って歩みなさいと、私たちにまことの神から来る祝福を指し示してくださいます。
最後に、本日の招詞も心に留めましょう。「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。(ヤコブ書1:19~20)」 これらみことばからの教えをもって、互いに慰め励まし合いながら、おごり高ぶる事なく歩みましょう。
私たちは、色々な出来事を見聞きします。過去の出来事や目の前で起こっている事だけでなく、今後予測される事にまで思いを向けるでしょう。また、目の前の出来事が大きければ大きいほど、たくさんの人が巻き込まれて色々な思いが錯綜する事もあるでしょう。色々な意見や考えに影響を受け、右に左に振り回されて大変な状況になる事もあるでしょう。自らだけでなく、その影響は家族にまで及び、大切にしたい家庭までも平安を失う事になりかねません。そうならないために、本日のみことばを心に堅く据え置きましょう。
1節「主よ、私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに、私は足を踏み入れません。」
何かを見聞きすると、実に私たちは瞬時に物事を判断し、その良し悪しを口にしやすい者たちです。自らがすべて事の次第を知り把握している訳でもなく、ごく一部しか知り得ないにも関わらず、その結果を予測しているに過ぎないのに、すぐに「こうだ、ああだ」と反応しやすい性格や内面を自覚する事は、とても大切な事です。
ダビデは、自らの分をわきまえる知恵の心を大切にしました。自らの心が、神の前にも人の前にも決しておごり高ぶる事の無いよう、常に自らの心を守っていたのです。この事を神にいつも祈り求め、高ぶらない歩みを目指していた事でしょう。
2節「まことに私は、私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります。」
自らの分をわきまえ、心おごらず高ぶらない歩みは簡単な事ではありません。ダビデのように意識する事が重要です。そうしないと私たちは、いとも簡単におごり高ぶってしまうからです。「乳離れして自立していながらも、決して母の教えから離れない子としての正しい心が、自らもつべき心だ」と強く意識して、常に自らの心を「和らげ静め落ち着かせた」のです。そうしないと、すぐおごり高ぶりやすい傾向性を正しく自覚した姿と言えます。
箴言26;17には「自分に関係のない争いにいきり立つ者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。」とあります。私たちは、見聞きするこの事は、自らが関わるべき当事者なのか、事に当たらないといけない責任者なのか、足を踏み入れるべき立場なのか等々、冷静になって判断すべきです。決して見聞きして、すぐにいりきたって反応してはいけません。私たちもダビデのように、常に自らの心を和らげ静め落ち着かせるよう意識しましょう。
3節「イスラエルよ、今よりとこしえまで主を待ち望め。」
これは一国家に向けた教えではなく、まことの神に寄り頼む者たち全体を指しています。つまり私たちに対して、罪ある者たちの色々な言動の影響下にありながらも、最終的には、すべての事を治める主なる神にだけ望みを置きつつ、この世を堅く立って歩みなさいと、私たちにまことの神から来る祝福を指し示してくださいます。
最後に、本日の招詞も心に留めましょう。「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。(ヤコブ書1:19~20)」 これらみことばからの教えをもって、互いに慰め励まし合いながら、おごり高ぶる事なく歩みましょう。
Posted by 沖縄天久神の教会 at 16:26│Comments(0)
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