2024年11月25日
「父なる神の家である天国」ヨハネ福音書14章1~6節
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:1~6)
多くの人は、この世の営みだけがすべてでは無く、地上の歩みが終わると次があると感じています。聖書ではそれを「天の御国」または「神の国」と表現します。本日のみことばは、主イエスが地上の歩みを終えた後、天国に行かれる事を教えられた個所です。
1節~、普通、私たちは大きな出来事にあえば心穏やかでいられません。その出来事に対して驚き動揺しますし、その後の事を考えて不安になり、心配するのは普通にある事です。しかし、主イエスはここで「心を騒がせるな。神を信じ、わたしを信じなさい」と言われました。どうしても起こった出来事に目を奪われ、心が動揺しやすい私たちに対し、「主なる神にこそ目を留め、その神と主イエスに信頼しなさい」と言われるのです。これが平安を得る唯一の方法なのです。私たちが何に目を向けているのかが重要なのです。
2節~、主イエスは天国を「わたしの父の家」と表現しました。他人の家ではなく父の家ですから、私たちの居場所がたくさんあり、そこは、いつまでも居られる「住む所」と表現されています。天国は、地上の歩みを象徴する「一時的」なものではなく「いつまでも永遠に」安心していられる所なのです。
この天国に、先に行かれた主イエスが、私たちのために場所を準備してくださり、準備ができたら、それぞれの時に、私たちを天に迎えてくださると言うのです。その理由は「主イエスが永遠におられる所に、私たちをも永遠にいさせるため」と言われました。
この事を通して分かるのは、私たちそれぞれの時に主イエスが迎えてくださり、永遠に主イエスと共に天国にいられるという事です。すなわち、いつまでも続く愛と平安の中に私たちをいさせてくださるのです。地上の歩みの一時的な苦しみや悲しみ、痛み等から解放されて、永遠の愛と平安の中に入れられる神の恵みなのです。ですから、死は、決して終わりや絶望ではないのです。
4節~、天国への道について教えられています。天国、すなわち父なる神のおられる所へは道があります。神の存在を信じていれば、何でも良いと言う訳ではありません。必ず道が必要なのです。主イエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちである。わたしを通してでなければ、誰も父のみもとに行く事はできない」と言われた通りです。
父なる神に至る道は、残念ながら人の中にはありません。何故なら、人はすべて神によって創られた被造物であり、「義人はいない、正しい人は一人もいない」と言われるように人の中に道は無いのです。道は、真の神であり同時に真の人である主イエス・キリストの中にしか無いのです。この方が語られたみことばに道があるのです。
ですから、本日の招詞に「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なる者とされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです」(使徒20:32)とあるように、私たちのためにと語られた主イエスのみことばが、父なる神に至る道として私たちには必要なのです。
最後に、主イエスは天国を「父の家」と表現しましたが、別の個所では、神を礼拝する宮を「わたしの父の家」と表現しました(ルカ2:49、ヨハネ2:16)。この事を通して分かるのは、神を礼拝する宮、つまり教会は父の家なのです。教会は、いずれ行く天国を先取りする地上における天国ですから、神の愛と平安が満ち溢れている所でなければなりません。私たちの教会が「神の教会」と呼ばれるからには、どんな人も神の家族として喜んで集い、互いに安心して関わる事のできる父の家であり続けましょう。誰も、決してこのいのちの関係を壊してはならないのです。
多くの人は、この世の営みだけがすべてでは無く、地上の歩みが終わると次があると感じています。聖書ではそれを「天の御国」または「神の国」と表現します。本日のみことばは、主イエスが地上の歩みを終えた後、天国に行かれる事を教えられた個所です。
1節~、普通、私たちは大きな出来事にあえば心穏やかでいられません。その出来事に対して驚き動揺しますし、その後の事を考えて不安になり、心配するのは普通にある事です。しかし、主イエスはここで「心を騒がせるな。神を信じ、わたしを信じなさい」と言われました。どうしても起こった出来事に目を奪われ、心が動揺しやすい私たちに対し、「主なる神にこそ目を留め、その神と主イエスに信頼しなさい」と言われるのです。これが平安を得る唯一の方法なのです。私たちが何に目を向けているのかが重要なのです。
2節~、主イエスは天国を「わたしの父の家」と表現しました。他人の家ではなく父の家ですから、私たちの居場所がたくさんあり、そこは、いつまでも居られる「住む所」と表現されています。天国は、地上の歩みを象徴する「一時的」なものではなく「いつまでも永遠に」安心していられる所なのです。
この天国に、先に行かれた主イエスが、私たちのために場所を準備してくださり、準備ができたら、それぞれの時に、私たちを天に迎えてくださると言うのです。その理由は「主イエスが永遠におられる所に、私たちをも永遠にいさせるため」と言われました。
この事を通して分かるのは、私たちそれぞれの時に主イエスが迎えてくださり、永遠に主イエスと共に天国にいられるという事です。すなわち、いつまでも続く愛と平安の中に私たちをいさせてくださるのです。地上の歩みの一時的な苦しみや悲しみ、痛み等から解放されて、永遠の愛と平安の中に入れられる神の恵みなのです。ですから、死は、決して終わりや絶望ではないのです。
4節~、天国への道について教えられています。天国、すなわち父なる神のおられる所へは道があります。神の存在を信じていれば、何でも良いと言う訳ではありません。必ず道が必要なのです。主イエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちである。わたしを通してでなければ、誰も父のみもとに行く事はできない」と言われた通りです。
父なる神に至る道は、残念ながら人の中にはありません。何故なら、人はすべて神によって創られた被造物であり、「義人はいない、正しい人は一人もいない」と言われるように人の中に道は無いのです。道は、真の神であり同時に真の人である主イエス・キリストの中にしか無いのです。この方が語られたみことばに道があるのです。
ですから、本日の招詞に「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なる者とされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです」(使徒20:32)とあるように、私たちのためにと語られた主イエスのみことばが、父なる神に至る道として私たちには必要なのです。
最後に、主イエスは天国を「父の家」と表現しましたが、別の個所では、神を礼拝する宮を「わたしの父の家」と表現しました(ルカ2:49、ヨハネ2:16)。この事を通して分かるのは、神を礼拝する宮、つまり教会は父の家なのです。教会は、いずれ行く天国を先取りする地上における天国ですから、神の愛と平安が満ち溢れている所でなければなりません。私たちの教会が「神の教会」と呼ばれるからには、どんな人も神の家族として喜んで集い、互いに安心して関わる事のできる父の家であり続けましょう。誰も、決してこのいのちの関係を壊してはならないのです。
Posted by 沖縄天久神の教会 at 16:16│Comments(0)
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