2023年03月25日
「成長させてくださる神を信頼して」Ⅰコリント3章1-9節
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。(聖書)
使徒たちが直接開拓し、育てていた教会でも多くの課題がありました。コリントは地中海沿岸の商業都市で、物流も盛んでしたので多くの人が集まって栄えた町でありました。文明や文化が栄えると、人がもつ多くの力が時として問題を起こしてしまいます。コリントの教会にこの世の価値観が入り込んでしまい、社会的立場のある人が教会を治め、立場の弱い人や貧しい人が虐げられていました。この間違った考えの根底にある一つが「誰につくか」という対立構造だったのです。
使徒パウロは、この問題のある考え方に対して、「誰につくか」と言っている時点であなたがたは肉に属するただの人である!そうあってはならない!私たちは天の父に属する者たちであるのだから!と力強く語り教えます。確かに実際的には「〇〇先生が開拓した」「△△先生が種まきした」「◇◇先生が何々した」とあるでしょう。しかし、この方々はそれぞれに与えられた賜物に従い、神の働きをなした神の協力者なのです。それぞれ賜物に違いがあり、その働きの内容には違いはありますが、どれも同じ神に仕えた神の協力者であり、バラバラではなく、一つとされているのです。大切なのは植える者でもなく、水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。
この視点を失い、それぞれの働き人から出る目に見える形や、その口から出ることばによって「誰が良い」「誰が悪い」と良し悪しを決め、「私は誰々につく」と言っているなら、二つに分かれたものを一つにするために愛の心を尽くした神、そしてのこの御心を受けて世に来られていのちを注いだキリストの歩みを台無しにしてしまう者となってしまうのです。私たちは、神の愛の心とキリストのいのちを無にする者たちとなってはいけません。むしろ、この神の心に基づいて、私たちも二つを一つにするように心を尽くす者となりましょう。
信徒たちは牧師のものではありません。そう思った瞬間に、牧師たちも「この世に属するただの人」になってしまいます。確かに、働き人が種をまき、植え、水をまいて来たでしょうが、あくまでも信徒は神の畑、神の建物と表現されるように、成長させてくださる神のものなのです。ですから大切に育ててくださる神の心を受け取りながら、大切に大切に心を注いていきたいものです。牧師たちも信徒たちも、どちらも神のものであり、どちらも一つとなるように神は愛の心を注いてくださるのです。この神の愛の心を受け取りながら、教会の中から対立しそうな要素を賢く取り除いていきましょう。
使徒たちが直接開拓し、育てていた教会でも多くの課題がありました。コリントは地中海沿岸の商業都市で、物流も盛んでしたので多くの人が集まって栄えた町でありました。文明や文化が栄えると、人がもつ多くの力が時として問題を起こしてしまいます。コリントの教会にこの世の価値観が入り込んでしまい、社会的立場のある人が教会を治め、立場の弱い人や貧しい人が虐げられていました。この間違った考えの根底にある一つが「誰につくか」という対立構造だったのです。
使徒パウロは、この問題のある考え方に対して、「誰につくか」と言っている時点であなたがたは肉に属するただの人である!そうあってはならない!私たちは天の父に属する者たちであるのだから!と力強く語り教えます。確かに実際的には「〇〇先生が開拓した」「△△先生が種まきした」「◇◇先生が何々した」とあるでしょう。しかし、この方々はそれぞれに与えられた賜物に従い、神の働きをなした神の協力者なのです。それぞれ賜物に違いがあり、その働きの内容には違いはありますが、どれも同じ神に仕えた神の協力者であり、バラバラではなく、一つとされているのです。大切なのは植える者でもなく、水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。
この視点を失い、それぞれの働き人から出る目に見える形や、その口から出ることばによって「誰が良い」「誰が悪い」と良し悪しを決め、「私は誰々につく」と言っているなら、二つに分かれたものを一つにするために愛の心を尽くした神、そしてのこの御心を受けて世に来られていのちを注いだキリストの歩みを台無しにしてしまう者となってしまうのです。私たちは、神の愛の心とキリストのいのちを無にする者たちとなってはいけません。むしろ、この神の心に基づいて、私たちも二つを一つにするように心を尽くす者となりましょう。
信徒たちは牧師のものではありません。そう思った瞬間に、牧師たちも「この世に属するただの人」になってしまいます。確かに、働き人が種をまき、植え、水をまいて来たでしょうが、あくまでも信徒は神の畑、神の建物と表現されるように、成長させてくださる神のものなのです。ですから大切に育ててくださる神の心を受け取りながら、大切に大切に心を注いていきたいものです。牧師たちも信徒たちも、どちらも神のものであり、どちらも一つとなるように神は愛の心を注いてくださるのです。この神の愛の心を受け取りながら、教会の中から対立しそうな要素を賢く取り除いていきましょう。
Posted by 沖縄天久神の教会 at 12:15│Comments(0)
│人間関係や状況で苦しい時│他者のことばに悩む時│怒りや憤りの心がある時│神を信頼して歩む│神のみことばに堅く立つ│まことの幸せを求める│喜び感謝して歩む│世の矛盾に心うばわれる時│Ⅰコリント書